先日、浜離宮朝日ホールへクローバー・サクソフォン・カルテットの演奏会を聴きにいってきた。
私が大学3年の時から育てて下さった、林田祐和先生がソプラノサクソフォンを担当しているカルテットだ。
また、おそらく人生初めて手にしたサクソフォンカルテットのCDはクローバーのものだし、まさに子供の頃から憧れだった存在のように思う。
そんな先生方の演奏会だった。
ここ数ヶ月の間のCOVID-19によって、我々音楽家を始めとする多くの人々が活動を大きく制限されている訳だが、このコンサートもその例に漏れず、650席あるホールは250席まで縮小し、チケットの手渡しは控えられ、そのチケットには名前や住所を記入、それらを記入するためのペグシルすら除菌という徹底ぶりであった。
これらはコンサートマネジメントの方々による配慮であると思う。様々な方面の人々が、最善の対策をもってコンサートに臨む様子がみえた。
あまりCOVID19の話をしても面白くは無い。
コンサートの内容について何か私から言えるようなことはもちろん無いほど素晴らしく、感動と憧れの気持ちを新たにした。
と同時に、音楽の世界にはいくつもの時代と正解が並行していることも実感した。
この言葉は芸術に皮肉があるという事の示唆ではない。
むしろ、真に芸術的なものを突き詰めた先の正解の数は、本当に際限が無いことを示している。
この世の中には様々な自由が存在する。
その自由は、ここでは法律や憲法によって保証されたものではなく、生物的な意味での自由…哲学的な自由の事をいう。
しかしこの自由には大きな責任が伴う。
それは、人として当然全うするべきであろう倫理の上に自由は保証されるということだ。
我々の生きる社会は本当に高度なつくりだと思う。それが成り立つから音楽が社会の中に生きることが出来るのだ。
社会における人間の生き方の正解の数には際限がない。
しかしその人その人に生きる目的や理由、野望がある。その人の正解があるはずなのだ。
音楽も同じで、クラシック音楽に限るのかは今の自分には分からないが、大きな芸術の流れがあり、様式があり、慣例があり、その先人たちが作り上げてきた流れの上に我々はいる。
正解や成功の形がたくさんあることを認めない限り、芸術は成り立たない。
社会ももちろん、多様性を認めない限りは何も成り立たないのだ。
自分が信じているものを信じ続けていいということを後押ししてもらったような、そんなコンサートだった。
勇気をいただいた。
自分にとってぶれないサウンド、信念を持つこと。
それは恐ろしいことのように思っていた。し、今もそう思っているところもある。
ただ、ありきたりな言葉だが何が正解かなんて本当にわからない。自分でとりあえずこれかなと思うことをやり続けるしかない。
責任を伴う自由を大きく使おう。
なんだかとりとめのないものになってしまった。いつもか。
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